第一内科について

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第一内科の医師にインタビュー:土井吾郎先生

2022/03/13

第一内科の医師へインタビュー企画第3回目。
今回は、医師9年目の土井吾郎先生に、医師になったきっかけや第一内科を選んだ理由なども含めて、学生時代から現在までのお話を詳しく伺いました。

左:内藤宏 (医師3年目, 聞き手)  中央:土井吾郎(医師9年目, 話し手) 右:西田知也(医師5年目, 聞き手)

中学・高校時代

「勉強がもっとしたくて医学部を目指す」

西田先生
― まず、先生の出身と学生時代について教えてください。

土井先生
広島県出身で、広島学院高校という中高一貫校を卒業しました。テニス部に入ってはいたのですが、ほぼ幽霊部員で・・・(笑)。誰とでも明るく絡むというタイプの性格ではなかったし、あの頃は勉強を頑張っていましたね。

西田先生
― いつ頃から医学部を目指すようになったのですか。

土井先生
中高時代に勉強を頑張っているうちに、医学部の勉強はもっと面白いのかなと思ったのがきっかけです。医学部に進学した後、医者になるのか研究者をやっていくのかということまでははっきりと決めずに医学部を目指していました。

西田先生
― なるほど。先生は、九大にストレートで合格されたのですよね。ご出身地ではない大学を選んだのはどうしてですか。

土井先生
大学については、九大のことをよく知って選んだわけではないんですが、いい大学の方が刺激も多くて勉強になるだろうと考えたのと、広島からもそう遠くないので心細さも少ないだろうという思いもあって、当時の実力で頑張って入れる最難関の九大を第一志望にしました。

西田先生
― 勉強や研究と言えば、自分は小中学校のときに自由研究が好きで、種に傷をつけてちゃんと育つかどうかのような研究をしたことを憶えているのですが、先生はどうでしたか?

土井先生
広島県出身で、広島学院高校という中高一貫校を卒業しました。テニス部に入ってはいたのですが、ほぼ幽霊部員で・・・(笑)。誰とでも明るく絡むというタイプの性格ではなかったし、あの頃は勉強を頑張っていましたね。

大学時代

「講義で膠原病は不思議で面白いと思い、興味を持つ」

西田先生
― 入学後はどのような大学生活を送られていましたか?

土井先生
大学でもテニスサークルに入ったんですが、やっぱり人付き合いが得意でなくて・・・(苦笑)。結局、そんなに顔出ししませんでした。家でひたすら本を読んだり勉強したり、陰キャみたいな生活を送っていましたね。

西田先生
― 先生のお人柄が反映されていると言いますか、まじめな大学生だったんですね。

土井先生
まぁ、そうですね。ただ、人付き合いが得意でなかったものの仲良くしてくれる人は多くて、お酒を飲むのが結構好きだったこともあり、よく居酒屋に行ったり友達と宅飲みしたりして、振り返ると楽しかったなと思います。

西田先生
― 先生が膠原病内科に興味を持つようになったきっかけについて教えてください。

土井先生
きっかけは、基礎医学の免疫学の講義を受けた際に、何か不思議で面白いなと思ったことです。臨床医学の講義で、膠原病の授業を受けた際にも、何か不思議な病気だなと感じました。本来外敵を攻撃するはずの免疫が自身を攻撃してしまうという自己免疫性疾患に興味を引かれたのが、最初だったかなと思います。

西田先生
― 自分も似たようなところに興味を持ちました。分からないことが多い、不思議な魅力に惹かれたというところはあるかもしれないです。

土井先生
ただ、講義を受けたときはそこまでピンと来ていないところもあって、本格的に膠原病を考えるようになったのは、5年生のポリクリのときだったと思います。 担当した患者さんが15歳のSLEの方でした。悪い症状が多くて、若いのに原因も分からない難病にかかっている、こういう人たちがよくなる治療や研究をしたいなと思いました。あとは、そのときに指導してくださった先生方が素晴らしくて、今もいらっしゃる新納宏昭先生とか、もう九大にはいらっしゃらない塚本浩先生とか、先生方のお人柄にも憧れを抱いたのを覚えています。

西田先生
― 膠原病の先生は、まじめで優しい方が多いという印象があります。

土井先生
そうですね。勉強熱心で、病気に関しても何でだろうというところから深く考える姿が当時から印象的でした。膠原病が慢性疾患であるという背景もあって、患者さんと長く寄り添う姿とか、そういうところもすごくいいなと感じました。一内科への入局を意識したのは、“研究もできて、全身を診られる医者になれる”という一内科のキャッチフレーズに魅力を感じ、「信じてみよう」と思ったことが入り口でした。

初期研修医時代~入局

「人生初の怒られる日々。きついけど充実の生活」

西田先生
― 初期研修はどちらの病院ですか?

土井先生
浜の町病院です。いまでは福岡市内の人気病院ですが、当時はそこまですごい人気ではなかったので、スムーズに入れたんだと思います。

西田先生
― どうして浜の町病院を選ばれたのですか?

土井先生
一番の理由は、膠原病を含め一内科の関連診療科が複数あって、一内科のどこかのグループに入りたいと思っていた自分の気持ちと合致したからですね。

西田先生
― なるほど。研修ではどのような生活を送られていましたか。

土井先生
最初に回った科が外科だったんですけど、あまり手技が好きでもなく得意でもなく、体力もたいしてなかったので、上司や看護師さんに怒られまくって、最初はただただきつかったです(苦笑)。人生で初めての怒られる毎日を過ごしました。

西田先生
― それまで怒られたことがなかったんですか!?

土井先生
そうですね、優等生でしたから(笑)。研修中は大変でしたけど、プライベートでは楽しく過ごしていました。同期の研修医が12名と多めで、九大の知っている人や他大学から来ている人とも仲良くなって、お酒を飲みに行ったりしてストレスを発散しました。病院が飲みに行きやすい場所にあったのもよかったです。

西田先生
― 浜の町病院は立地もいいですよね。研修の方はどうでしたか?

土井先生
研修も、希望していた一内科の関連科で研修をさせてもらい充実していました。膠原病内科だけではなく、血液内科や感染症内科も当時はありましたし、いろいろと経験するなかで候補の診療科の具体的なイメージをもてました。

西田先生
― 入局はいつ頃決めたのですか?

土井先生
優柔不断な性格で実際にローテしてみるまでは入局の決断はできないという気持ちがあって、最終的に膠原病内科を回った後で志望しました。2年目の夏頃です。

西田先生
― 印象に残った先生はいらっしゃいましたか?

土井先生
膠原病内科でお世話になった吉澤誠司先生の影響が大きかったです。ダンディーで、かつ知識も経験も豊富で、教育熱心で、今後医師としてやっていくなら、ああいう先生になりたいなと憧れました。それが、その後の仕事のモチベーションになっていると思います。

西田先生
― 浜の町病院に研修に行った人からは、吉澤先生のそういうお話をちょくちょく聞きます。

土井先生
浜の町病院に研修に行くと、吉澤先生に導かれて入局する人が毎年1人はいるような感じですね。本当にすごい先生です。

後期研修医~大学4年目

「医師3年目で何でもできるわけはない。大学病院には心強いサポート体制あり」

西田先生
― 後期研修は大学病院ですか?

土井先生
はい、3年目は大学病院の病棟で膠原病内科の医員として働き始めました。

西田先生
― もう研修医ではない立場ですが、どうでしたか?

土井先生
やっぱり初めは難しいなと感じました。初期研修でも膠原病の患者さんを診させてもらってはいましたが、大学では、TAFRO症候群のように「year note」でしか見たことがない希少疾患にたくさん出くわすんですよね。そもそも診断がついていない患者さんに、どのようなアプローチで診断していくのかというところから考えなくてはいけないので、そういうプロセスはなかなか大変でした。

西田先生
― 同感です。診断基準を満たさず、診断をつけられない患者さんもいますよね。例えば、不明熱の患者さんで病名は分からないけれど、病態はサイトカインストームっぽいな、というところまでは分かった場合、背景の病態を考えて治療を先行させるという、難しい舵取りをせざるを得ないケースもあったりします。

土井先生
そうですよね。そういった病態は何だろう、診断は何だろうと考えるのが膠原病内科の醍醐味で、今ではそれを楽しみと思えるようになってきています。

西田先生
― その他に研修医時代と比べて変わった点はありましたか?

土井先生
主治医という立場で患者さんを診るということですね。診断・治療、そのほか患者さんに関わるすべての面で責任が出てくるので、そこに時間や体力を割く生活になりました。ただ、まだ3年目なので何でもできるわけではありません。大学病院には、困ったときに助けになってくれる先生がたくさんいて、分からないことを聞くとスマートに回答をくださったり教えてくださったりしたので、何とかやっていけました。

西田先生
― なるほど。これから3年目を迎えるような先生にもとても心強い言葉だと思います。3年目の段階で、専門知識が絶対にないといけないかといったら、そこはどうにかなると。

土井先生
そうですね。研修医時代には、医師としての在り方や一般内科としての最低限の対応ということを身につけることが大事だと思います。主治医になったからと言って、3年目で何でもできるとは周りは思っていないです。少なくとも、九大に関してはそれをサポートする体制がしっかり出来ています。僕自身も、感染症内科と血液内科が同じ一内科として大学病院で一緒に働いていて、相談もしやすかったのでとても心強かったです。

西田先生
― 患者さんを診ながら勉強していくということですね。

土井先生
はい。膠原病内科は、知識も経験も大事な診療科なので、一人ひとりの患者さんと向き合って、その経験をつなげていくことを意識してやっていました。

西田先生
― 医師4年目に、先生は産業医大に行かれたんですよね。

土井先生
現在の新内科専門医制度では、研修医2年後は3年間臨床をしてから大学院に行くのが一般的だと思いますが、当時の僕らには医師4年目から大学院で研究をする、あるいは臨床を続けるという選択肢がありました。研究にも興味があったので、大学院への進学も迷ったのですが、膠原病内科という専門診療科で1年経験した時点で、まだまだ経験不足だという気持ちが勝ったので、もう1年臨床をすることにしました。その際、産業医科大学病院で勉強する機会があるというお話を頂きました。

西田先生
― 産業医大は九大一内科の関連病院というわけではないですよね。実は、僕も医師4年目のときに同じような流れで、1年間産業医大にお世話になりましたが、先生が九大一内科から初めて産業医大に行かれたと聞きました。

土井先生
はい。一般的には、若手医師は関連病院を1~2年ごとローテーションしながら臨床経験を積んでいくと思うんですが、産業医大に国内留学みたいな形でお邪魔させていただく貴重な機会をいただきました。

西田先生
― 産業医大は、膠原病内科の診療数が多いことで有名で、西日本でも1、2を争うぐらいの患者数と聞いています。

土井先生
そうですね。産業医大は膠原病内科として世界的にも有名な病院で、毎週20〜30人の膠原病の入院患者がいて本当に驚きでした。新規発症の患者さんや再燃を繰り返す難しい患者さんの経験をいっぱい積ませてもらい、経験豊富な先生方にもいろいろなことを教わり、本当に勉強になった1年だったと思います。

大学院時代

「CRISPR-Cas9関連の基礎研究で、毎週の成果報告に四苦八苦」

西田先生
― 産業医大での1年間の臨床を終えた後、いよいよ大学院進学となったわけですね。

土井先生
はい。以前から研究をしてみたいと思っていたのと、一内科の先生方も、医師のキャリアの中で大学院進学を勧める先生方が多いのでチャレンジしました。

西田先生
― 先生は一内科の研究室ではなく基礎研究室に行かれたのですか?

土井先生
そうですね。大学院に入るときにも選択肢が2つあって、一内科の膠原病内科の研究室に行くケースと、あとは膠原病内科ではない例えば基礎系の研究室に行くケースです。僕は、いわゆる基礎研究を一度はやってみたいと思っていて、その希望をお伝えしたところ伊藤隆司教授の医化学研究室をご紹介いただきました。

西田先生
― 研究内容について教えてください。

土井先生
CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)という、ここ数年世の中を席巻しているゲノム編集技術に関する基礎研究をしました。普段医師として臨床に従事していると基礎医学のことに触れる機会も乏しくなって、特に最新の知見については全然分からなくなりますよね。僕の詳しい研究については、別コラムで紹介させていただきますので、そちらをお楽しみに。

西田先生
― 先端的なことをされたんですね。研究にご苦労はありましたか?

土井先生
そうですね。いくつかあります。1つ目は、研究ではこれまで医師としてやってきた経験がまったく通用しないということです。全く新しい分野に飛び込むことになるので、簡単な実験操作1つをとっても、何も分からないところからのスタートでした。幸い、つきっきりで実験や研究のことを教えてもらえたので、だんだんと技術や知識が身についてきました。2つ目は、研究室に入った4月から毎週実験経過報告が求められたところですね。つまり、毎週ある程度の研究成果を出さなければいけないわけで、毎日、1週間後に向けてどういったことをしようとか、どういった結果が出るといいかなというのを考えながら研究しました。他にも、週1回教授への報告の場があったり、月1回研究室全体で1カ月間の研究成果を1人1時間かけて発表するというイベントがありました。その1時間の発表に足る研究成果を出すために、その先何をやるかということを常に考えて研究することは、勉強になると同時に正直大変でしたね。

西田先生
― 1カ月の成果で1時間も発表するのはなかなか大変そうです。最終的な研究テーマとはどのように出合ったのですか。

土井先生
初めは、さっき少し話したCRISPR-Cas9に類似した機能を用いた技術開発に携わっていたのですが、結局それが途中でダメになってしまいました。これも1つの苦労話かもしれないんですけれども、研究にはよくあることなんだと思います。でも、技術開発の途中でたまたま見つかった出来事があって、結局そっちの方に、脇道にそれていったことが最終的に僕の4年間の成果になりました。それについてもせっかくなので別コラムでお話しさせてもらいますね。

現在と今後の展望

「自分の役割が少しずつ変化。若手の成長も楽しみ」

西田先生
― 現在、病棟医として勤務されていらっしゃいますが、大学院での4年間のブランクを感じることはありますか?

土井先生
そのことについては大学院進学前から不安はあったんですが、過去に研究をされてきた先生方に聞くと、「まあ、何とかなるから、4年間は研究に専念した方がいい」とおっしゃるので、それを信じて、不安はありながらも臨床に戻ったという形でした。いざ臨床に戻ると、自分の裁量で時間管理できていた研究生活とは違って、急に呼ばれたり、思っていたタイムスケジュールで動けないこともあり、勘が戻るまでは大変でした。西田先生から見てどうですか、僕の働きぶりは。

西田先生
― 素晴らしいと思います。

土井先生
ありがとうございます、気を遣っていただいて(笑)。4年間まじめに知識をアップデートして、西田先生のような心強いレジデントの先生の力添えもあり、何とかやっていけていますかね。

西田先生
― 笑。最後に、これまでのキャリアを踏まえて、今後の人生の展望があれば教えていただけますか。

土井先生
そうですね。研修医になりたてのころは、とにかく患者さんに寄り添おうとして、時間があれば患者さんの話を聞くことを目標にやっていました。3年目になると立場が変わり、患者さんと話をするだけではなく、診断や治療について責任を持って考えなくちゃいけない。そのための勉強とか、経験を積むことに費やす時間が増えていきました。そして4年間の研究の中で、医学がどう発展していくか、どんな研究がどんなふうに世の中に役立っていくかということも勉強できました。今は病棟のシニアレジデントとして働いていますが、学生さんや研修医の先生方の指導をさせていただく機会も増えてきました。学年に応じて自分の考え方や役割が変わってきたなと感じます。

個人的な目標としては、臨床を絡めた研究をさせてもらえる機会があれば頑張りたいなと思っています。その他には、学生相手の講義であったり、後輩の指導や教育という側面にもすごくやりがいを感じています。若手が育ってくる楽しみですね。自分は今後衰えていく一方かもしれませんけれども、若手が頑張ってくれればいいなとか、少しでも膠原病に興味を持ってくれればいいなとか、そしてその先一内科に入局してくれる人がいるといいなというような、何かちょっとした視点を持ちながら頑張るようにしています。

西田先生
― たくさんのことをお話しいただき、ありがとうございました!