第一内科について

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初代・稲田龍吉教授の研究内容

ワイル病病原体の発見とその撲滅へ向けての貢献

稲田龍吉先生は、明治七年三月愛知県名古屋市に出生され、明治二十八年東京帝国大学医科大学へ入学されました。同三十三年に首席で卒業し青山胤通教授(初代)の内科教室に入局された後、同三十五年より満三ヵ年内科学研究のため独国へ留学されました。同三十八年帰国と同時に京都帝国大学福岡医科大学(現九州大学)の大学教授に任ぜられ、内科学第一講座を開設されました。これが九州大学医学部第一内科の歴史の幕開けでした。

赴任当時、九州地方には発熱・黄疸・出血を伴い死亡率の高い(約30%)疾患が多発していました。最近発見された稲田先生の述懐に依れば、青山教授の自宅を訪ねておられたときに、九州にこの「風土病」が存在することを知り、赴任前より興味を深めていたそうです。赴任後、稲田先生は井戸泰先生(第二代教授)らとともに、この疾患をすでに報告されていたワイル氏病(ワイル病)と診断し、当時不明であったその病原体の発見に焦点を絞り研究を進められました。患者血液をモルモットに接種しワイル病を惹起させ、そのモルモットの肝臓組織にスピロヘータを見出し、その継代培養に成功、このスピロヘータがワイル病の病原体であることを確認しました。これらの研究成果を、「ワイル氏病病原体-新種スピロヘータ発見概括報告」(稲田龍吉、井戸泰:東京医事新誌1908号、351-360、1915)として発表されました。さらに野口英世博士のボスにあたる米国ロックフェラー研究所のフレキスナー教授の薦めにより、「The etiology, mode of infection, and specific therapy of Weil’s disease (Spirochaetosis Icterohaemorrhagica)」としてロックフェラー機関誌Journal of Experimental Medicine (J Exp Med 1916; 23 : 377-402)に発表しました。稲田先生が発見したスピロヘータは、親交の深かった野口英世先生により、独立した属のスピロヘータと確認後、属名をレプトスピラと提唱され現在に至っています(Hideyo Noguchi, J Exp Med 1917; 25: 755-763)。このおふたりのやりとりや研究の交錯についての興味深い出来事の一部は「遠き落日」(渡辺淳一著)にも記載されています。

重要な点は、稲田龍吉先生によるワイル病の研究は、単にその病原体の発見にとどまらず、感染源、感染経路、臨床、病理、診断、治療、予防といった幅広い範囲に及んでいることです。その成果は「日本出血性スピロヘータ病論」として日新医学第五巻にまとめられていますが、その内容は追加訂正の余地がないほどに完成されていたため、研究の進め方、まとめ方の手本としても当時より高く評価されていました。稲田、井戸両先生の功績は、大正八年にノーベル賞候補に挙げられていましたが、同年五月に井戸教授が急逝されたため、残念なことに選考から除外されました。

稲田先生の研究に対する姿勢やお人柄は、3年前に教室で発見された記録レコードから読み取ることが出来ます。稲田先生が実践された研究手法、すなわち、臨床の疑問から出発し、基礎医学の思考技術を取り入れて論理的に追及し、継続的な努力により科学的な発見をすることで、新しい内科学を創造するという姿勢を、我々は今日まで脈々と受け継いでいます。これは現代医学が特に目標に掲げているトランスレーショナルリサーチそのものであるとも言えます。これこそが九州大学第一内科の伝統なのです。